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 PROFILE
及川英俊のプロフィール

1965年1月23日、岩手県盛岡市に生まれる。
深夜の1時か2時ちょうどに生まれたそうな・・
残念ながら、生まれた瞬間の記憶は無い。

生まれたのがいわゆる“早生まれ”。
同じ学年の1964年生まれの連中は
東京オリンピックの年に生まれた。というんですが、
そのフレーズを使っていいのかどうかわからない。

東京オリンピックの次の年というのも、何かシャクに障る。
きっと、前の年の早生まれなら、東京オリンピックの年生まれ。
ってことで乗り切ってしまうんだろうと思うと耐え難い。
そんな悶絶の誕生日が私の誕生日なんです。

きっと、なんとなく成長。
3歳で盛岡市愛宕町の『あけぼの保育園』に入園するも、1年で退園。

退園に至った理由は全くわからない。ってことは、どうってこと無い話だったってことです。

その後、1年間の自宅浪人を経て、
1970年『紅葉ヶ丘幼稚園』に入園。

遊んでいる時に転んで、ブランコの鉄柱に耳をぶつけて怪我。
結構顔面血まみれの流血状態です。
数針を縫い、初めて外科手術を経験しました。はい、麻酔無しです。
ちなみに、幼稚園は皆勤賞。
ひらがなで“おいかわひでとし”の“わ”の字が鏡文字状態で卒園。
小学校入学時は、自分の名前が満足に書けなかったこの私なんです。

さて、そんな状態で入学したのが盛岡市立山岸小学校。
小学校では、一番前。前ならいの時は両手は腰。
視線はどこにおいたらいいの~、って感じでした。

5年生で、この強制リーダーシップ係から解放されました。
4クラスあったんですが、クラス替えで、各クラスの隊列リーダーが一クラスに集結。
私は、その中では4番目。一気に最前線から4番目まで後退を許されました。
ここで初めて味わう、前ならいでの、両手を前に突き出すポーズ。
何が嬉しかったって、これが嬉しかったです。小学校時代は。

まだ、盛岡の中でも田舎っていわれるような場所でした。
川があって山があって、田んぼがあって・・
家から小学校までは、低学年の足では、とっても遠く感じました。

1kmもない距離だったんですが、きっと数十分かけて通学していたんだろうなぁ。
舗装されていない道を、エッチラ、オッチラと。山道を抜けるような通学路は、
毎日がハイキングのようでした。えぇ、ちょっと手を伸ばせば、
リンゴはくすねられる。春はカエルの大合唱。夏は蝉の声。秋は虫の音。

今となってはなつかしい。

あまりにも当たり前に目の前にあったあの風景は、残念ながら今は無い。

あの日に帰りたいなんて、できるわけのないことを思ったりはしません。
でもね、自分の身体の隅々に刻み込まれた、あの風景、あの音、あの香は
取り戻せないものかって心から思うんです。

あまりにも当たり前だったから、何の価値も感じなかったあの頃が、
今じゃホントに懐かしい。

だって、いつもタダでありったけ満喫できたあの感じを味わおうと思ったら、
大金払って、何日も時間かけなきゃならないんですよぉ。

しかも、どこ行ったって、それそのものであることはあり得ないんですから。
どんなにお金と時間を費やしても・・

ホントに大切のものって、いつでも、そこにソッとあるんでしょうね。
だから、そういうものってきちんと気付いてあげて、大事にしなきゃぁいけませんね。
最近、自戒の念も含めてそんなふうに思います。

さて、山道を歩きながら、将来は仮面ライダーやウルトラマンのようになりたい!
などと力強くもぼんやり思っておりました。
さすがに、ガッチャマンが実在するとは思いませんでしたが、
あの“バードラン”とか、アイアンキングの“アイアンベルト”はきっとどこかで売っている。
って本気で思っている大ボケ小学生でした。

そんでもって、自分の名前もロクに書けないんですから、先生は大変です。
別に騒いだり暴れたりはしません。とにかく、まともに反応しなかったらしい。
自分ではもう記憶がないんですが、お腹がすけば、
頭の中に、何か食べ物のイメージが浮かんできます。

で、これが、図画工作の時間ならまだ許される。
それを書けばいいですから。でも、算数の時間に、「こたえ ケーキ」では、
ほとんど先生はパニックです。

そう、瞬間、先生を自信喪失と神経衰弱の世界へと誘う、
ミステリアスな少年だったわけです。

ちなみに、通信簿はオール2。
アヒルの行列って、わたしをからかったのは、他でもない自分の親でした。
でも、そのこと自体がなんのこったかわからないんですから、
えぇ、いっしょになって笑ってました。ただのアホだった、ってことです。

田中淳先生、別に悪気は無かったんです。

小学校4年生くらいになると、少しばかり、マシになってきました。
少年ジャンプ連載の「庖丁人味平」か「トイレット博士」か忘れましたが、
おいしそうなカレーライスの絵を見て、大変感動しました。

で、その絵をそのまんま書いて提出しました。それが夏休みの自由研究。
で、担任の井畑先生は、こういうオトボケをキャッチしてくれる先生でした。
私にパニックが起こらない先生だったんです。この先生には今でも感謝しています。
その辺にころがっている木をひもでつないで“ヌンチャク”ということにして、
工作の宿題にするのもOKでしたから。

この小学校4年生の時に書いた自分の絵を完璧に模写して提出したのは
小学校6年の夏休み明け。

小学生にそこまでいうか!ってくらいにその時担任の大沢先生にはボロクソに言われました。
時はぁ巡りぃ、また夏が来て~、もう、2年前のそれでは通用しませんでした。

そう、その時私は知ったんです。
私ってかなり成長してるんだなぁって。と同時に、結構このことを根に持った私。
読書感想文で幼稚園児のいとこから借りた『キンダーブック』に載っていた
「アンパンマン」を読んで感想文を書いてやりました。

自分の頭を食べさせることで飢えた人を救う、架空の優しき生物アンパンマン。
そして、自分を助けてくれる人を食べることしかその生を維持することのできない人間。
そこに渦巻く葛藤のドラマ。それがアンパンマン、ってことにして書いてやりました。
見事に盛岡市読書感想文コンクールで佳作です。
世の中口八丁、筆八丁だ、ってことです。

小学校6年生の夏休み、初めて東京に遊びに行きました。
盛岡との違いに驚愕しました。まさしく『大都会』。ホントにあの違いには驚きです。
別世界です。そしてマグドナルドのハンバーガーに感激。
なんてったって、ハンバーガーなんて盛岡じゃぁ食べられるところがないんです。
ファーストフードのフの字もない。そんな時代でしたから。

 話がもどっちゃうんですが、その違いがよかったんですよね。本当は。
今じゃぁ別に東京も盛岡もたいして変わらない。
そして、陳腐だから、“違い”じゃなくって“差”になっちまった。本当に寂しい・・

でも、単純な小学生は、あの電飾いっぱいの街と西洋人が運んできた
ジャンクフードに魅せられて、絶対、東京行くぞ!って思ってしまったんです。
人間の動機なんてこんな程度のものです。

デビュー当時は桜田淳子が好きだったんですが、次第に山口百恵派に移行。
と同時に、小学校ももうすぐ卒業が近づく頃にブレークしたのがピンクレディ。

再結成で、あの時と変わりない振り付け見せてくれるのは、
もうそれだけで最高だぜぃ!思いっきりミーハーでしたこの頃は。
今は、悪いけど、誰見ても同じにしか見えない。そんな私に誰がしたっ!

小学校から中学校は何の感動もありあせん。お引っ越しで転校する人以外は、
まんま、同じ中学校ですから。
 
中学校は盛岡市立下小路中学校。3つの小学校から入学してきます。
入学するやいなや、元クラスメイト(最近この言葉ってつかうのか?ペンパルとか・・)が
城南小学校出身の佐々木大君を連れてきました。

「ピンクレディのファンクラブ入ってるヤツだぞ!」っていいながら。

そんなことが思いっきり重要なことだったんです。
そして、気が付けば、盆暮れに今でも必ず会う人間の一人はこういう縁なんだから、
世の中って、ホント、テキトーでいいじゃん、って思ってしまいます。

そして、人気絶頂のピンクレディのコンサートは昼夜二回公演。全席自由。
岩手教育会館大ホールが会場です。恐ろしいことに、チケットは時計屋さんの景品です。
ちょうど、入学時期に当たった私たちの学年はラッキーです。
これが縁ってもんです。

そして、今私が居る事務所がそのホールがある建物の6階です。(今は、引っ越しました)
縁なんてそんなもんです。

で、徹夜でキープした最前列。えぇ、燃えましたよ。なんてったって、
今とは時代が違います。本一冊が貴重な時代でしたから。
免疫のない田舎の中学生にとって、当時のピンクレディは“ピンとくるレディ”です。
ですから、燃えました。

その時いっしょに行った友達に佐藤嘉繁君や三浦幸彦君
(別に著名人ではありませんので、誰だろう?なんて思うことはありません)がいます。

そして、盆暮れにはいつも会ってます。
縁なんてそんなもんです。

そして、最初入ったのは物理科学部。アマチュア無線の免許が欲しかったから。
でも、みんな運動部に入りやがって、夏休みに遊ぶヤツがいねぇ! 
で、寂しさのつれづれに、入ったのがバスケット部。完全にいただけ。ただそれだけ。

で、この年の大きな出来事。キャンディーズの解散。私含めてピンクレディファンチームは、
みんな寛容で柔軟で節操がなかったので、キャンディーズも好きだったんです。
えぇ、行きましたぜぃ。後楽園球場のファイナルコンサートに。

最初のハードルはチケット確保。電話予約は平日の日中。
私のばあさんの家が学校から徒歩3分。全力疾走1分半。
で、虫歯の一本もない私が、歯医者に行くことにしてばあさん宅へ。
電話をかけること数十分。やっとのことでつながりました。

で、思わず口をついて出た「子ども3枚」。

大人も子どももないんですが、だいたい、中学生から大人料金になるところが多いんで、
背の小さい私は、姑息に子ども料金で世渡りをしていました。
そんな癖というかボロが出てしまった一瞬ってヤツです。
その時思いました。人間真っ当が一番だって。

そんなこんなで行ってきました。姑息に子ども料金の寝台特急で。
なんてったって、次の日は始業式でしたから。
朝は盛岡駅のコインロッカーからカバンと制服出して登校態勢。
そう、たった一日だけですが、東京から電車通学した一日でした。

中学3年間、学校は皆勤賞でした。一日でも休んだら、行くのが面倒になりそうなので、
どんなに高熱を出そうが、とにかく学校には行きました。
飽きっぽい人間なんですが、続けるって決めたら執念を燃やします。

夏冬休み連続6回芥川龍之介の『杜子春』で読書感想文を書き続けました。
全集の一発目に載っていて、なおかつ短編。最高でした。
で、そのことに国語の工藤先生は気付きませんでした。そうです、
人間って、いい意味でも悪い意味でも、忘れるんです。
ですから、堂々としてりゃぁいい。そう思いました。
ホント、心の底からそう思いました。

まぁ、こんな話はほんと、腐るほどあるんですが、書いていたらきりがない。
そして、メルマガ巻頭語のネタが無くなる。ので、そんな話はこんな程度にして、
とにかくミーハーだったってことと姑息だったってことです。
ちょっと、行動的でもありました。

それで、高校進学ですが、目的は一つです。
東京の大学に進学するためにはどの高校がいいのか?
はっきり言ってどこでもいいんですが、
結構、自分の見栄があったのと、高い学費を親に払って貰うことを考えると、
どこの大学でもいいってワケにはいかない。
なにしろ、算数の授業で「こたえ ケーキ」という犯罪のような回答をしている人間です。
基本的に勉強嫌いです。

でもね、どうしても、東京に行きたかったんですよ。あの頃は。今
だったらきっとそんなこと考えないような気がするんですけど、あのころはそうだったんです。
で、勉強しました。頭の中は東京のネオンとマグドナルドから漂うあのニオイ。

岩手県立盛岡一高っていう学校に入りました。
ただ、疲れ切って抜け殻のように高校時代を過ごしました。

親には申し訳ないと思いながら1年の浪人と、もう1年のすったもんだの末、
早稲田大学教育学部国語国文学科っていうのに入学しました。

はっきり言えるんですが、学部や学科は何でもよかった。誰でも知ってる学校ならよかったんです。
ですから、愛校心のかけらもありません。ただの過去です。
今なら、絶対こんな選択はしないだろうって思うんですが、結果論です。
まぁ、済んだことってことよ。

で、通算6年間東京にいました。そして、ちょうど、飽きました。卒業するころに。

バブルのころだったんで、就職先はいろいろあったと思います。
でも、ちっとも、大看板に興味が湧きませんでした。
何より、東京に飽きたってことと、東京以外なら地元がいいって里心もついてました。
ちょうどよかったんです。

で、もう、就職活動シーズンなんてもう、下の学年が始めてるころに、ちんたら始めました。
働く気なんてこれっぽっちもないんですが、フリーター(当時この言葉があったかどうか・・)
になる度胸もなかったんです。つまり、は小心者だってことです。

仕事を探す要領が悪い人間もいれば、人を捜す要領の悪い会社もあるもんです。
ですから、世の中しっかりマッチングします。縁なんてそんなもんです。

で、新卒で盛岡の広告代理店に入社しました。
もう、秋も相当深いころでしたから、そういう意味ではラッキーだったって気がします。
いずれ、これも縁です。

この会社には11年と10ヶ月勤めました。
あと2ヶ月勤めれば、きっちり12年で干支が一回り。
もう1ヶ月早く辞めてりゃ、20世紀でピシッと終わり。
何とも中途半端な辞め方ですが、いかにも生まれた日の影響って感じがします。
まっ、こんなのはこじつけですけどね。つまり、どうでもいいこと。

自分ではもっと早く飽きるような気がしていたんですが、そうでもありませんでした。

先ず一つには、自分ができるようになっている実感がなかなか得られなかったってことがあります。
できるようになるとおもしろくなるタイプと飽きるタイプとがあると思うんです。
子どものころかなりミーハーだったってことをお話ししました。

たいてい、こういう人間って飽きっぽくできてます。
ええ、私は、かなり飽きっぽいタイプです。

なので、12年近くも同じ組織にいられるとは自分で思っていませんでした。
できるようにならなかったんです。ちっとも。
少なくとも、自分ではその感触が得られませんでした。
それが、良くも悪くも飽きを起こさなかったことだと思っています。
つまり、仕事ができなかったってことです。

もう一つは、業種との接点です。ほとんどの業種は関連業種との取引で業務が進みます。
でも、広告はあらゆる業種が取引先です。
ですから、いろんな業種と接することで知らない世界を見ることができます。
飽きっぽい人間は反面、何にでも興味を示す、って面も持ってます。
ですから、いろんな業種と接点があることは、おもしろかったんだろうなぁって思います。
何かに飽きても、別な関心事が現れ続けてくれたってことでしょうか。うん、そんな気がします。

そして、いろんな仕事を見て感じたのは、どの仕事も大変だなってことです。
ですからね、転職して少しばかり給料が上がったところで大変さも増すだろうって思いました。
根が小心者ですから、そういう警戒心も安易に離職をする感情を抑え込んでいたんじゃないかって、
そんな気もしています。

ですんで、今でも、安易な転職、ましてや、独立の相談には基本的には慎重な態度で臨んでいます。
それが、最大限、私にできる誠意だと思っています。
これは何があっても変わらないってそう思ってます。

でも、まぁ、そんな私の弱みは、自分自身が独立自営だってこと。

会社辞める時の理由は「21世紀になったから」。

その5年くらい前にも一度辞めようとした時があったんですが、

その時は「競馬の必勝法を研究したい」です。

こんな私ですが慰留されました。
「そんなことで生きられるわけ無いんだから、もう少しここで生きろ」って。
で、その後、5年くらいいたんですが、死んでました。
一度失った覇気ってもんは簡単に戻るもんではありません。
ただただ給料を貰ってるような状態に耐えきれなくなって、
それで、2回目が「21世紀になったから」です。

自分では『世紀の退職』って呼んでます。

自分以外にも辞めたり入ったりする人を結構見てきたんですが、一つ言えることがあります。
一度辞めると言った人間は、必ず辞めます。ですから、会社がやるべきことは一つです。
いつどの社員が辞めてもいいようにしておくこと。
だって考えてみてください。交通事故で死んでしまったら。
その人は、いつから、なんかじゃなくって、その瞬間から来なくなるんですから。
気持ちよく送り出してやりゃあいいってことです。

辞めろといっても辞められないのは、麻薬と宗教だけなんです。

会社を辞めた後、なんと名乗ろうかって思ってました。
イコール何して食おうかってことでもありますけど。

とりあえず、できることっていったら、やってきたことの延長で、なおかつ、人がやってないこと。
で、企画書・提案書なんかを書いて換金化し始めました。

昔は小説家を売文家などと呼んだ人も居たようですが、もろにそんな感じがフィットする商売です。
今でも思ってるんですが、企画や提案なんて伝わればいいことです。

大事なのはやることです。ですから、できるだけ簡易なものがいい、っていうのが基本。
でも、金に換えようと思うと中身よりどう見えるかです。
ですから、とっても自己矛盾したことをやっていました。
そのうちやめよう。それだけは思ってました。

なんだかんだといいながら、勤め人時代から通算すると大小合わせると
1000以上の企画書や提案書を書きました。
そうすると、何が起こるかっていうと、先ずは、飽きるんです。ホントに飽きます。

で、書くことが無くなってきます。

正確にいうと、論理的に書き記すことのできるアイディアなんてほとんど書き尽くされるてるんです。
ですから、見る視点を少しずらしたり、組み合わせたり、見せ方を変える程度なんです。
もう、飽きます。徹底的に苦痛な作業です。

フッとやってくる会心の企画やアイディアっていうのは理論構築ができるもんではありません。
伝えてYESかNOだけです。そういうやり方って、つまり、金が取れないって事なんです。
そう、構造的に矛盾を抱えた商売なんです。企画って。

まぁ、「販売促進プランナー」なんて名乗ってましたが、しっくり来ませんでした。
し、そもそもやめようと思ってますから、名乗るというより、聞かれた時用の言葉でしかありません。
日銭を稼がせていただきながら、どうすれば、人が集まるのか、どうすれば、モノが売れるのか、
なんてことをせっせと学習しました。

ホントは広告会社の社員ならとっくの昔にやってるはずのこと。

でもね、やってませんよ。他の人のことはわかりませんけど。

少なくとも私はそうでした。だからねぇ、一人になったあとはホント真剣です。
何しろ、生きなくちゃあいけない。自分自身が。でも、今の飯のタネはさっさと手放したい。

全身に矛盾が渦巻くそんな日々を過ごしながら、少しずつですが仕事のスタイルを変えてきました。

今でも、毎日が勉強と実験です。ほんの少しでも毎日動き続けようと思ってます。
言葉と心が通じ合いさえすれば、どこの誰とでも仕事はしたいししようと思っています。
でも、根を張って生きようと思っているのは、ここ盛岡です。

もちろん、きれいな花は咲かせたいし、咲いた方がいい。
でもね、それ以上に思ってるのは、根を太くすることなんです。
そして、幹を太くして、枝がなって葉があればいい。花の役目は次の新しい世代を作ること。
でも、それは、しっかりとした根から葉ができればこそです。
今はとにかく根を太くすることにこそ最大の力を注いでいます。
そして、私を選んでくれるお客さんの事も、しっかり根を太く元気にしてあげようってね。

人間、息して、水飲んでりゃあ生きられます。
で、それって、摂取するだけじゃなくって、まさしく、生き方でもあるんじゃないかって思うんです。
人間、息を止めたら速攻、死にます。でも、普通に生きてりゃ普通に息は存在します。

そう、無意識に。

水は流れが止まれば腐ります。でも、自然の水はいつでも動いてます。
海も川も湖も、そう、そして、人の血液も。

 “たかが仕事、されど仕事”なんていう人居ますけど、やっぱり『たかが仕事』です。
仕事のために命なんか賭けることはない。仕事なんて、生きるための道具でしかありません。

だから、『水のごとく在り、息のようにする』。

等身大で生きていけば、人間必ずなんとかなるって思います。

 中小企業の命って、とどのつまりは社長の命とイコールなんです。
ですから、社長の息と血の流れがしっかりしていれば絶対大丈夫です。
そう、その鼓動と息吹が在れば。動悸息切れではいけませんゼ。

だから、今日することは、息をすることと1mm動くこと。毎日、ただそれだけです。

私自身もいつもそうです。
そして、私にできることは、呼吸を整えてあげること。
そして、ソッと、1mm前進するためのエールを送ることです。

続ける!って決めたら執念深いこの私が、何があっても書き続けると決めたメールマガジンも、
電話コンサルも面談もメールコンサルも全てです。

あっ、最近はフォトリーディングもか・・・

渾身の力で及川が贈る、経営人へのエールです。

そう、『少し動けば大きく変わる』のメッセージを乗せて。

毎日の1mmと息吹をお届けし続けます。

                                  書家、プロフィールライター他 及川英俊

Posted by hide at 2006年11月03日 22:16

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